2019年は今川義元生誕500年。小和田先生に聞く、今川義元を再評価すべき理由
2019年は今川義元生誕500年。しかし、静岡といえば、徳川家康の印象が強く、静岡を230年にわたり治めた今川家にはスポットライトがあまり当たりません。そんな中、歴史学者の小和田先生は「今川義元は武田信玄や上杉謙信に並ぶ戦国の武将であり、再評価すべきである」と言います。一体、今川義元はどのような人間で、私たちは何を見落としているのでしょうか?小和田哲男先生に話を伺いました。
取材日2018年7月23日
PROFILE
1944年 静岡市に生まれる
1972年 早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了
2009年 静岡大学を定年退職
現在、静岡大学名誉教授
「おんな城主 直虎」や「歴史秘話ヒストリア」、「知恵泉」をはじめ、数多くの時代考証や歴史番組での解説を担当する。
小学生のころには歴史家になると決めていた
歴史学者といえば先生の名前が上がりますが、もともと歴史に興味を持ったきっかけはなんでしょうか?
私の母親の旧姓が馬場と言うのですが、小さい頃から「武田信玄の家臣、馬場信房の子孫だよ」と聞かされて育ち、武田信玄や戦国時代が身近な存在でした。また、静岡で駿府城を見て育ったということ、小学校に上がる前に東京に引っ越し、家が江戸城のすぐ近くだったことも関係していると思います。そうした様々な要因が重なり、小学校4〜5年生の頃から歴史家になりたいと周りには言っていました。
それから中学、高校ではどういった活動をされていましたか?
中学生や高校生の頃は、仲間を集めて歴史部を作りました。高校になると仲間と一緒に近場のお城によく行っていたものです。高校3年生の頃には、私が今理事長を務めている日本城郭協会と言う公益財団法人に入り、大人たちに混じって様々なお城を訪れていました。ただ、最年少ではなく、中学生がいたことに少し驚きましたね。
大学・大学院ではどういった活動をされていましたか?
私が大学に入った頃は、「お城なんかは趣味の世界だよ」という言われ方でした。今であれば、お城の研究で博士号が取れるのですが、当時は違いました。私も本当は卒業論文をお城の研究でやりたかったのですが諦め、今川について書くことにしました。というのも、研究のスタートは自分の出身地の武将からはじめたいと言うのがあったからなんです。ただその頃、今川と言うのは桶狭間の戦いで信長に負けた後、落第者と言う印象が強く、ほとんど研究する人がいませんでしたね。
大学院に入ってからは、修士論文で近江の浅井長政、博士論文で小田原の北条について研究をしています。大学院を出たあとは、1年間豊島区史編纂室で働き、静岡大学がちょうど公募をしてものですから、応募をして採用していただきました。
ちょうどその頃から、県内の歴史的な調査にかかるようになりました。お城の研究が専門分野の1つでしたので、各地の城跡の整備調査委員会を頼まれるようになりました。小田原城や長野県の松代城の城跡の整備委員会にも参加するようになり、全国的に行動の範囲を広げていきました。
今川義元の魅力は、富の力と文化を兼ねそろえていたところ
先生は今川義元を再評価しておられますが、どういったところが魅力だと思いますか?
きっかけは、武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いの研究をしていたときのことです。5回にわたり戦っているのですが、私が注目したのは第2回戦。このとき、今川義元が武田信玄と上杉謙信の間に入って、「戦いをやめろ」と仲裁をしています。
もしかしたら、「今川義元というのは、上杉謙信や武田信玄と肩を並べていたのではないか」と思ったのが、今川に注目したきっかけなんです。
さらに、もともと駿河遠江というのは石高(こくだか)が低いのですが、25,000人と言う人数を桶狭間の戦いに動員できた、その資金源はどこにあるのかと考えました。
1つは、東海道の流通経済を先駆的に支配下に置いていたということ。もう1つは、安倍川上流の梅ヶ島金山の産金収入が大きかったこともあげられます。当時のお公家さんの日記を読むと、今川から金が送られてきた記録が多く出てきます。そこから、富の力があったことを読み解くができます。
このように、東海道を押さえ金脈を持っていた今川義元は、戦国を代表する武将の1人だと、私は見ています。
そのほかにも魅力はありますか?
それともう1つ、文化があげられます。京都のお公家さんに金を送った見返りに、お公家さんから和歌を習ったり、蹴鞠(けまり)を習ったりしていますので、京都王朝文化が静岡に根をおろす1つのきっかけになっています。戦国三代文化と呼ばれるものがあるのですが、山口の大内家、福井の朝倉家に続き、静岡の今川家も含まれています。
その今川義元の下で人質として育ったのが家康ですから、徳川家康は今川文化を受け継いだという見方をしています。
徳川家康も今川から学んでいるところがあるんですね。
これは講演でよく言うことなのですが、家康は今川の良い事を受け継いでいる。静岡=家康と言うイメージが強くありますが、その前に230年におよぶ今川の時代があったことを忘れてはいけません。家康が駿府にいたのは25年間ですから。今川があったからこそ静岡があると言うのはあります。例えば、家康が「能好きだった」と言うのは、現代に能が受け継がれる大きなきっかけでして、実は今川義元も能が好きでした。
今川は統率力や発想力も兼ねそろえていた
今川義元は優秀な武将だったのでしょうか?
今川義元自身の頭が切れたかは分かりませんが、右腕として活躍したのが臨済寺の和尚「雪斎」。この人が切れ者で、ナンバー2でした。ただ、桶狭間の戦いの5年前に亡くなっています。歴史には「もしも」は言えませんが、彼があと5年長生きしていれば、もしかしたら桶狭間の負け戦はなかったかもしれません。
一時期は三国という広大な地域を統治していますが、今川義元のすごさがわかる出来事はありますか?
今川義元は、新しい発想を持ち合わせていました。磐田市の見付という地域に、おもしろい文書が残されています。当時の町人たちが、「これまで年貢を100石納めていたものを、150石に増やすから自分たちの自治を認めてくれ」という申請を出しているのですが、許可を与えています。「町人の事は町人に任せたほうがいい」という、新しい発想力を持っていたと思います。
静岡まつり 今川義元役
普通だったら怖くて自治なんて許せませんよね?
考えられないですよね。また、おもしろい話があり、駿府の街の有力町人に、町人頭と言う名前を与えています。これも、任せるという同じ発想ですね。
また、今川家は楽市楽座を、織田信長よりも1年前にやっています。信長のほうが有名ですが、実は「今の富士宮浅間大社の門前を楽市楽座にする」と言う文書が残っていまして、これは信長が岐阜で楽市楽座をやっているよりも1年前でした。
今川義元生誕500年に向けて
来年で今川義元生誕500年ですが、取り組んでいきたいことはありますか?
どうしても今川義元というと、桶狭間のときには馬ではなく輿に乗り、「軟弱な武将だった」と言うイメージが一般的ですが、輿に乗っていたのは、馬に乗れなかったからではなく、将軍家から「外出の時に輿に乗っていいですよ」と特別許可をもらっていたからです。
尾張の田舎大名である信長を威圧する意味で、「うちはお前らとは違うよ」と見せつけようと思ったのが結局あだにはなってしまいましたが…。
加えて、今川義元は、お歯黒をしていました。歯を黒く塗るのは、お公家さん風だと言われていますが、これも当時の史料にはある程度の身分の人は男でも歯を黒く塗っていたという記述があります。
先ほど申しましたように、武田信玄と上杉謙信の間を分けた武将ですから、500年祭を通して戦国を代表する武将として多くの人に知ってもらいたいです。駿河、三河、遠江の3国を統率していた武将ですからね。
そのために、静岡商工会議所が中心となりイベント開催したり、富士宮にある富士日本刀の宗三左文字復元にも動いたりしています。また現在、静岡市が駿府城公園の天守台を発掘していますけども、来年には今川時代の地層まで掘り下げると言っています。私はあの辺りに今川の館があったと思っていますので、その痕跡も少し出てくる可能性があります。それも期待したいところですね。
今川ゆかりの地を訪問したい場合、どこへ行けばいいでしょうか?
静岡には、今川ゆかりの地が未だ多く残っています。またそこを訪ねていただければ、今川を見直す1つのきっかけになるかもしれません。
具体的には、今川義元のお母さんのお寺「龍雲寺」ですとか、お父さんのお寺「増善寺」。昔は、大名クラスの人が亡くなるとお寺を建てており、その当時のまま残っています。普段は入れない臨済寺も、来年は開けていただける機会が増えると思いますので、このタイミングに行ってみてください。
インタビューを終えて
小和田先生に、今川義元について丁寧に教えていただきました。静岡の基礎を作ったともいえる、今川家についてあまりにも無知であることがよくわかりました。どうしても徳川家康の印象が強くなってしまいますが、来たる2019年は今川義元生誕500年。この機会に、今川家の歴史を辿ってみたいなと思えました。